もしかしたらぼくの嫁は善のイデアかもしれない
4年前の冬、ぼくが大学2年生のころのはなしです。
大学から家に帰ろうと、東京駅の北通路を通って東海道線の下りのホームにあがる階段の手前のところではっとひらいめいたんです。
「ぼくが嫁にこんなにほれているのは、嫁がプラトンのいう善のイデアだからかもしれない」
え?さんよし結婚してんの?
いえ、結婚はしてません。
ぼくがいっている「嫁」とはアニメ・漫画・ゲームの世界のキャラクターで、特に自分が惚れこんでるキャラクターのことです。
ええ、さんよしは2次元の世界が好きな人間です。
どっかのバラエティーで現実で彼女を作るよりアニメのキャラクターが大好きで、「現実よりも2次元がいい」「結婚するつもりなんてない、もう嫁がいるから」とかいっちゃうやつです。
嫁は大変ありがたいものである
そしてさんよしは普通のキモオタのさらに先にいってしまっています。
さんよしの嫁、つまり2次元のキャラクターはこの世界の真実っであり、善の概念であると。
こんなにもすばらしいと感じているのは嫁がただの絵、萌えキャラだからではない。
嫁はこの世界の真実だからだ!
かなりアレなことをいっていますが、まだ序の口です。
さらに深淵にむかっていきます。
ここにプラトンの「イデア論」を導入することでぼくの電波思想を一般化します。
イデア論を説明するのめんどいんでwikipedia教授から引用。
我々のプシュケー(魂)というのは不滅であって輪廻転生を繰り返しており[2]、もともとは霊界にいてそこでイデアを見ていたのであって、こちらの世界へと来る時にそれを忘れてしまったが、こちらの世界で肉体を使い不完全な像を見ることによりイデアを思い出しているのだ
想像以上にわけわからん説明だったのでがんばってさんよし流に解説すると
嫁=イデア(真実)
(俺の嫁すなわち真実)
ではなく
嫁←イデア (真実)
(俺の嫁は真実から導き出される)
と読み替えるのです。
こうすることで特定のキャラクターを真実だと断定するのではなく
すべてのキャラクターは真実から派生したものだと解釈するのです。
なぜこのような解釈をするのかというと、キモオタがやりがちな
「〇〇たそこそ至高」
「俺の嫁こそさいかわ、異論は認めない」
といった不毛な議論を防ぎ、すべてのキモオタの嫁がすばらしい存在であると導き出すのです。
まとめると
俺のたちの嫁は真実の存在の証拠であり、たいへんありがたいものである
ってことです。
これで安心して死ねるね!
ここまでの議論で、
- 嫁は真実の存在を示す
- 嫁はたいへんありがたい
ってことを力説してきたわけですが、
この電波思想によってぼくたちの現実世界には存在しない真実、僕たちの嫁が生み出された元になる抽象的な善の概念が導き出されます。
この抽象的な善の概念、ぼくたちが直接認識することはできませんが、嫁を愛でることでそれがあるということを間接的に知ることができました。
しかし、ぼくたちがこれらに対して何かしら働きかける、影響を与えることはできません。
ぼくたちの現実世界にはないものだからです。
ぼくは手の届かないすばらしい存在があると悟ったとき、もう死んでもいいと思いました。
じぶんの人生がどうなろうと真実の存在が、善の概念が、存在する。間違いなく、ある。
そしてそれらはぼくがこの世界でじぶんの人生で何をしようと変わらずに存在し続ける。
ぼくが死んで、この世界の景色が変わっても、あり続ける。
こう思ったとき、ぼくは死ぬことが怖くなくなりました。
すばらしい存在があり続けるなら、もうそれだけでいい。
安心して死ねる。
じゃあ残りの人生どうするの
こうして悟りを開いたさんよしですが、悟りを開いたところで人生が変わるわけではありません。
毎日朝起きて、ごはんたべて、仕事して。
よろこんだり、おこったり、悲しんだり。
一見ふつうの人生と変わりありません。
ですが、一度嫁を通して善の存在を認識すると、ふとした日常にその痕跡があるように見えてきます。
例えば知らない街の脇道。
二度と来ることもないでしょうし、ふつうにひとが通る道です。
ですがなぜか気になる。
善の存在をびんびんに感じるとかじゃなくて、なぜかひかれる。
そんなとき、そこには善の概念、真実が少しだけ現れている。
少しだけ、さりげなく、なんとなく。
残りの人生はそういう風景をこころで切り取っていく人生になる。
そして善の概念に看取られて死んでいくのでしょう。